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Love me!

そんなタイトルの本を作ってみたかったような気がする、夜10時半。

投稿時にはきっと11時を回っているのだろうなと思いますが、どうもこんばんは、もりえつりんごです。

1時間前まで、今日は日記じゃなくて小話をのっけるかな〜と思って練っておりましたが、あれやそれやがあってやっぱり日記みたいなものになりました。

先に断っておきますが、下記は全て推論とうろ覚えの記憶を頼りに好き勝手書き散らかしたものなので、話半分に聞いてくださいね。

興味がある方は、ぜひ検索してみてください。Google scholarで検索するだけでも、まあまあ論文は漁れますし、大学紀要の論文はCiniiや大学の専用のウェブページに載っています。

真面目に不真面目な話、私は心理学が好きではないという話を一つ。

心理学という言葉って、すごく字面が良いですよね。心の理(ことわり)を学ぶ、究める、そんな学問が心理学。

詳しくない人でも、心理テストというものは聞いたことがあって、経験したことのある人が大半ではないかなと思います。ああいうのって面白いですよね。

自分が特定の枠に収まるんだ、という感覚や、分類される感覚が。

研究者にあるまじき推論での記録で申し訳ないのですが、ああいう感覚って、感情の共有──いわゆる共感と似た感覚・認知なのではないかな〜と思っています。

共感、もとい共感性って、実は大まかに二つの考えがあって、一つが「共感は頭で考えて行うものと、情動的(ニュアンスとしては本能的)に行うものとがある!」という考えで、もう一つが「 いや共感は一つでしょ」っていう考えです。(今は他の考えもあるかもしれませんが、メジャーなところを引っ張っています)

別にこれと関連する感覚か、といわれると答えられないのですが、ここで語る私はいわゆる前者の考えを支持していて、そういう分類の仕方でいくと、認知的な共感のそばに、「自分が個ではない」という安心感みたいなものを感じるものがあるんじゃないかな、なんて思っているわけです。

話が逸れましたが、つまりそういう感覚というのは多かれ少なかれ人間である以上は持っている、捨てることが難しい感覚なのではないかな、と思います。

(さっきから感覚感覚とふんわりした言葉を使っていて申し訳ない)

で。

そういうものを考えた上で、心理学を見ると、ちょっと気味が悪い……いいえ、はっきり言えば、「 いたちごっこみたいだな」という感覚がするんですね。

研究って、自分の中にある「なぜ」を細かく分けて、信頼のある前提の素に積み重ねていくものなんですよね。人間関係にも信頼って必要だと思いますが、研究だって必要です。

だって、数字で示したとしても、「それ」が存在することを周囲が認識して信頼しないと、「それ」はその人の考えでしかないのですから。

人間の歴史が、古典なりなんなりが大事にされているのは、そういう信頼の積み重ねがあるから。卑怯でずるいように見えますが、信頼されたなら、多くの人が納得したなら、遺されるのです。

回り道をしましたが、要するに、心理テストって「みんな」という多くの人が「この問いかけにAと答えたら、その人はaという性格を持つ人間だ」と思っているから、成り立つわけです。心理学も、人間が、不特定多数の人間の集団を分析したら、特定の枠組みにはめられるぞ、と言って、それもそうだなと信じる人がいて成り立つわけで。(これは心理学だけではありませんが)

この、言い知れない不毛な……感覚が、好きになれない。

そうはいっても、私は心理学の手法を用いて研究をしているわけで。

手法がどうのこうの、それを研究している人がどうのこうの、と愚痴めいたものを言いたいわけでもないけれど、ただ単純に、ああ好きじゃないなあ、と思うわけでした。

ただ、人間のことを調べると面白いですから、研究したい気持ちはとってもわかるんだなあ。

タイトルと全然関係ない上に、本当にただ記録となってしまいました。

明日は小話でも更新しよう。浄化浄化〜!

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